今回は友人から聞いた噂話を書いていこう。
それは、
クリスチャンは「ダンス禁止!」!?
という話。
ちなみに自分は無宗教、無神論。
自由の代名詞「ダンス」だけど、
信仰でダンスすらも制限されてしまうのか?
なぜダンスがダメなのか?
どこまでがダンスなのか?
ヒップホップは大丈夫なのか?
どのダンスなら大丈夫なのか?
これをテーマに書いていこうと思う。
少しデリケートな話題だけど、聖書アプローチでダンスを掘る機会も少ないので調べてみた。
都市伝説的な感覚で読んでもらえたら!
クリスチャンの学校にはダンス禁止ルールがある?
この話は、自分の友人がクリスチャンの友人から聞いた話である。
要は、
俗にいう友人の友人の「他人」である。
内容はこうだ。
「あるクリスチャン学校は、ダンス禁止なんだって」
何を持ってダンス禁止なのか?
理由を聞くと、少し理解した。
「体を使ってアピールすることは、性的興奮を掻き立てるから」
現実にこのルールを定めるクリスチャンの学校や教会は存在する(らしい)。
なるほど、確かにダンスジャンルにより性的興奮を促すことはあり得る。
例えばレゲエダンス。

これは納得w
ポールダンスもなかなかエグいし…。

これらのダンスであれば理解はできる。
でも、聖書の時代にこのジャンルがあるはずもない。
もし「衣装」や「動き」で性的興奮を掻き立てるなら、どこまでの表現ならいいのか。
そして、こんな記事もあった。
60年の伝統つなぐ…ダンスが彩る「聖園祭」
カトリック校「聖園女学院中学校・高等学校」の文化祭「聖園祭」のメーンは、毎年フィナーレを飾る創作ダンス。
ならば、これが答えなのか…!?
となると終わってしまうので、今回はもう少し深掘りしよう。
実は、聖書にはダンスをした人々がたくさん登場する!
なので、聖書の中でダンスを用いて「神を崇めた人々とその心」に焦点を当てていこう。
ダンス禁止の理由とは?
まず、なぜクリスチャンの学校や教会がダンスを禁止するのか?
先ほど伝えた友人の話では、
「性的興奮を掻き立てる」
「体を性のアピールに使ってはいけない」
などの理由が挙げられた。
確かに、ダンスジャンルによりその一面もある。
しかし、クリスチャンの価値観は「聖書」が軸になっている。
では果たして、聖書は何と言っているのか?
実際、聖書には「ダンス禁止」「ダンスは罪」の記述はない。
強いて言えば、聖書にはこんな記述がある。
ですから、私は願う。
男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。
同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさい。
(テモテへの手紙第一 2:8~10 新改訳聖書3版)
このように「ダンス」や「性的アピール」に直接の言及はない。
確かに「慎み深く身を飾り」と”地味アピール“を勧める記述はある。
これは女性に向けた言葉だけど、男女問わずと捉えておこう。
しかし、果たしてこれが「ダンス禁止」と解釈できるのか。
もし、この他にダンス禁止の根拠となる聖書の言葉があれば是非問い合わせを。
その際は、ちゃんと追記させていただく。
ダンスはある意味「儀式」という側面も、確かにある。
「ダンスは悪魔的儀式や崇拝」
という理由もあるかもしれない。

ダンスを用いて悪魔を礼拝すれば当然NG。
しかし、それは「悪魔礼拝」がダメで「ダンス」がダメなわけではない。
現代の「礼拝会」のスタイルはオリジナリティーがある?
調べると現代の「礼拝会」のスタイルの中には、聖書由来ではない部分も多く含まれているらしい。
クロスロード・インターナショナル教会
http://crossroads-church.jp/?p=3413
カトリック礼拝会
http://www.adoratrices.jp
これらを読んでも「過去の風習や習慣」も時代により変化している。
昔は「音楽」が教会ではタブーだった説
昔は「音楽自体」が教会ではタブーだったらしい。
という説もありつつ、
聖歌や賛美歌なども音楽だよね?
という話も出てくる。
これについては以下。
教会には,聖餐会において使用できる音楽は賛美歌のみであるという指針がありますか。
「賛美歌は礼拝行事の基本的な音楽であり,会衆で歌う際の標準曲である。
さらに,その他のふさわしい曲は前奏曲,後奏曲,聖歌隊音楽,特別な音楽発表に用いることができる。賛美歌以外の曲を用いる場合は,賛美歌の精神を保つものとするべきである。歌詞は教義上正しくあるべきである。」
(『手引き 第2部教会の管理運営』〔2010年〕,14.4.2)(「会衆で歌う場合」『賛美歌』330-331も参照。)
しかし、時代や地域によってはオルガンやピアノでさえ、
「礼拝にはふさわしくない」
と言われていた時代もあったらしい。
だけど、時代の変化に合わせ様々な「礼拝スタイル」がある。
そう考えると、大切なのは「スタイルや行為」ではなく
「礼拝の対象」
「動機や心のあり方」
これが重要なのではないだろうか。
由来や見てくれではなく。
大切なのは心の動機なのだ。
音楽も踊りも、全ては神の創造。
神が創造した人間が身体を使って表現する!
神から与えられた身体を使って、力の限り神を褒め称える!
これが罪ならば、
神の創造を否定することになるのではないだろうか。
じゃこれもアリだね。

…..いや、
ダメか。
では、次は聖書でダンスをした人達について書いていこう。

聖書でダンスをした人達とは?
聖書には、ダンス・踊りを用いて神を賛美し、讃えた人々が数多く登場する。
今回はその中で代表的な3人を紹介しよう。
ミリアムの例


ミリアムは、預言者モーセとアロンの姉。
彼女は、イスラエルの民の賛美の歌をリードする、いわば賛美リーダーだった。
聖書初の「女性賛美リーダー」と言われている。
聖書にはこう書いてある。
アロンの姉である女預言者ミリアムがタンバリンを手に取ると、女たちも皆タンバリンを持ち、踊りながら彼女に続いて出て来た。
ミリアムは人々に応えて歌った。
「主に向かって歌え。なんと偉大で、高くあられる方。主は馬と乗り手を海に投げ込まれた」
(出エジプト記 15:20~21 聖書協会共同訳)
これは、イスラエルの民がエジプトから脱出した後、神を褒め称えて歌った歌。
神は民を導き、海の間を通らせて、エジプトから救い出した。
その後、ミリアムは民の歌をリードする。
彼女たちは、タンバリンの演奏と踊りを用いて神を賛美した。
イスラエルの民も、彼女の導きで「歌と踊りで賛美した」ことは想像できる。
ダビデの例


ダビデは王だ。
聖書にはこんなエピソードがある。
主の前でダビデは力の限り踊った。
(中略)
だが、主の箱がダビデの町に着いたとき、サウルの娘ミカルは窓から見下ろし、ダビデ王が主の前に跳ねたり踊ったりしているのを見て、心の内で蔑んだ。
(中略)
ダビデが家の者を祝福しようと戻って来ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えて言った。
「今日のイスラエルの王(ダビデ)はなんとご立派であったことでしょう。一人の愚か者が恥ずかし気もなく裸になるように、仕え女や家臣の前で裸になられたのですから」
(サムエル記第二 6:14~20 聖書協会共同訳)
これは、「神の箱」がエルサレムに戻ってきた時の有名なシーンである。
神の箱とは…
箱の中には「契約の板」「アロンの杖」「マナを入れた壺」が入っていた。
契約の板は、モーセがシナイ山で神から授けられた、十戒を記した2枚の石の板のこと。
アロンの杖は、杖でありながら芽を出したもので、これは、たぐいない祭司としてのアロンの使命を示しているもの。
マナは、神の民が荒れ野で飢えていたとき、神が40年間の荒れ野での旅の間中、毎朝、マナを降らせてくれた「神の慈しみ」を示すもの。
神の存在と力が強く示された「神の箱」(神輿的)は、敵であるペリシテ人に奪われていた。
しかし、神がペリシテ人に神罰を下し、神の箱は最終的にエルサレムに返ってくることとなる。
ダビデは、神の箱の帰還を喜んだ。
彼は、喜びのあまり服を脱ぎ捨てて裸(または半裸)になり、踊り狂った。
神の箱の帰還を喜び神を賛美した。
しかし、このダビデの姿を快く思わない人がいた。
それは、ダビデの妻ミカル。
ミカルは裸になったダビデを見て、彼を蔑んだ。
その結果、ミカルは死ぬまで子供を産めなくなる罰を受けた。
ん!?
裸になってダンスをしてないミカルが罰を受けた!?
ダビデはミカルに言った。
「あなたの父やその家の誰でもなく、この私を選んで、主の民イスラエルの指導者と定めてくださった主の前なのだ。
その主の前で私が踊ろうというのだ。
私は今にもましてもっと卑しくなろう。
自分の目にさえ卑しい者となろう。
だが、あなたの言う仕え女たちーー彼女たちからは、誉を受けるであろう」
サウルの娘ミカルには、死ぬまで子どもがなかった。
(サムエル記第二 6:20~23 聖書協会共同訳)
言い回しが難しいので簡単に伝えると、
俺(ダビデ)は神のために裸でもっと踊るぞ!だから、お前(ミカル)はもっと嫌になるだろ?
でも他の人は一緒に喜ぶよ!楽しめないお前は一生孤独で生きな!
という感じか。
このエピソードを見ると、裸(同然)で踊り狂って神を褒め称える行為そのものは、むしろ歓迎されている。
大切なのは「行為」ではなく、その根底にある「心」「精神」というのが分かる。
イエスの命令というパターン
最後に、イエスが命令した内容。
聖書にはこう書いてある。
喜びなさい。喜びおどりなさい。
天ではあなたがたの報いは大きいから。
あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。
(マタイの福音書 5:12 新改訳聖書3版)
イエス自身が「喜びおどれ」と言っている。
これはダンス禁止が全面撤回された形では!?
この一点だけでも、「ダンス禁止令」は間違った教えだと分かるだろう。
むしろ、全身全霊で踊り狂って神を褒め称える!
これは良いことであり。
禁止される理由はないと判断できそうだよね。


いや….。



クリスチャンはダンス禁止!?のまとめ
これまで様々な例を挙げたが、結論はシンプル。
◆聖書は「ダンス・踊り」そのものは禁じていない
◆問われるのは「行為」ではなく「対象」と「動機」
「フラダンスはOKだけどヒップホップはNG」
このように、ダンスの種類によって区分けする人もいると思う。
しかし、どんなダンスでも礼拝してもいいのでは?と個人的には思う。
自分はクリスチャンではないので何とも言えないけど、クリスチャン特有の「これはOK」「これはNG」という、
「してはいけない主義」
は微妙だと思う。
特に聖書に書いていなかったり、明らかに否定されているもの以外の「グレーゾーン」(ダンスはグレーなのか?)は、柔軟性が必要だと思う。
なぜなら、安易に「これはして良い」「これはダメ」と教えると、信仰とは離れてしまうから。
昔クリスチャンの知り合いに聞いたんだけど、
信仰の本質は、
イエスが一方的な十字架の犠牲になったことを信じるだけで、救われる。
この考え方だと言っていた。
世界中のクリスチャンマインドは分からないけど、生き方の基準は、その後についてくるものだと思う。
教会や学校での「ダンス禁止のルール」は、メンバーや生徒たちを管理するには都合がいいだろう。
しかし、そのルールが「聖書の基準」と間違って捉えられないよう、一定の配慮と注意が必要ではないか。
「禁止」「禁欲」という縛りは誰も幸せにしない。
クリスチャンも「自由」を求めることで、人生が豊かになるのではないだろうか。


では!


