今回は
誰もが知るLEGOを生み出したキアク・クリスチャンセンのサクセスストーリー
を書いていこう。
【LEGO創業者】オーレ・キアク・クリスチャンセンとは

1891年4月7日。
デンマーク西武のユトランド半島という島にとある貧しい家族。
その貧しい家族の10番目の子供として生まれたオーレ・キアク・クリスチャンセンは家族を大切にするとても優しい心を持つ少年だった。
6歳の頃には牧草地で羊の世話をしたり、家の手伝いをして家族を支えようとしていた。
家は貧しくて、おもちゃを買う余裕がなかったため代わりに木の端きれを人形に見立てて遊んでいたのである。
そんなクリスチャンセンは14歳になると、兄の一人から大工仕事を教わることになる。
小さな頃から木を触っていたクリスチャンセンは、その後6年間大工として働きながら成長し、やがて20歳になる頃には島を出て海外で働くようになった。
外国で働いていたお金は故郷デンマークに戻って工場を作るために使っていた。
そして、そのまま働き続けたクリスチャンセンはやがて、キルスティンという女性と結婚して4人の子宝に恵まれるようになる。
そんなある日のこと。
クリスチャンセンが33歳の頃、幼い息子たちが木工所で遊んでいて木工所の木に火が点いてしまい全焼してしまうことがあったのだ。

クリスチャンセンはショックを受けたが、すぐに前向きに考えると一生懸命働いて以前よりも大きな建物を建てることにした。
当然、建物にかけるお金は切り詰めなければならなく、家族は木工所の隣のアパートに暮らして、そのアパートの部屋も別の人へ貸し出して生活をしていた。
さらに、その数年後に大恐慌が訪れると多くの人がお金を使わなくなり、家や家具を作る大工仕事は一気に激減してしまったのである。
さらに不幸は立て続けに起こる。
妻は4人の子供を残してこの世を去ってしまう。
大恐慌の中、自分一人で子供4人を育てながら作業場を作ろうと試みるもクリスチャンセンの前には、いくつもの壁が立ちはだかる。
しかし、クリスチャンセンは決して諦めることはなかった。

そこで、自分の子供の頃と同じように子供達に必要な生活雑貨は自分で作ってあげることにした。
おもちゃを買うお金がないため、木でおもちゃを作って遊ばせていたのだ。
普段はテーブルなどの生活雑貨を作っていたが、子供たちが自分の作った木のおもちゃで楽しそうに遊ぶのをみて、試しに売ってみることにした。
すると、木のおもちゃは意外にも売れていったのである。



LEGO社の設立
やがてクリスチャンセンは12歳になる息子のオドフレッドに手伝ってもらいながら、生活雑貨とおもちゃの会社を設立する。
クリスチャンセンは家具で使用するような質の良い木材を使っており、最高のものこそ価値があるということを信じていた。


そして1934年。
よく遊べという意味の、
LEG GODT単語を訳して会社名を「LEGO」という名前にした。
そんなある日、クリスチャンセン一家に再び悲劇が起こってしまう。
1942年、電気回線がショートしてせっかく建てた工場に火災が起き、工場と倉庫が焼け落ちてしまったのだ。
しかし、この悲劇に対してもクリスチャンセンはめげることはなかった。
より大きく効率的な組み立てラインを持つ工場として再建。
そして、第二次世界対戦後の1947年。
クリスチャンセンの元に一人のセールスマンがやってきた。
彼は当時は新しい素材であるプラスチックを作り出す機械をクリスチャンセンに売り込みに来たのである。


だが、その機械はクリスチャンセンの会社の利益をはるかに超える高価な代物で、とても手が出せるようなものではなかった。
ところがセールスマンが見せたサンプルの中に心惹かれる物があった。
それは、プラスチックのブロック。
クリスチャンセンはこれに興味を持つと、その高価な機械を購入することに決めた。
当然これに対して息子や周りの人間は猛反対!
しかし反対を押し切り機械を購入したクリスチャンセンは、そのブロックを改良するために試行錯誤と実験を繰り返して行く…。
実験の末、自動結合式ブロックとして完成。


ブロックはプラスチックの柔軟性を活かし、ブロック同士がパチンと結合する現在のレゴブロックの原型となって販売された。
そして、このブロックは大ヒットすることになる。



LEGOブロックのシリーズ化
当時、木製のおもちゃが主流だった業界。
その中で58歳になったクリスチャンセンは木製とプラスチック製を合わせて200種類ものおもちゃを販売し圧倒的な存在となっていた。
さらにクリスチャンセンは、あるバイヤーの言った
「おもちゃ業界にはシステムという考え方がない」
という言葉からレゴブロックをシリーズ化してみようと思いつく。
こうすることでブロックを別々に買っても1つのおもちゃとして遊べ、シリーズとして継続し買ってもらえるようにしたのだ。
このアイデアがヒットしたLEGO。
会社の規模を拡大して7人で運営していた会社は、その頃には400人もの人が働く会社に成長していた。
そして1957年には、息子のゴトフレットが会社を継いでスタッド・アンド・チューブ連結で特許を取得。(現在は期限切れ)
翌年にクリスチャンセンは66歳でこの世を去ったのである。
こうしてクリスチャンの残した
「自由に形作られるブロック遊びが、子供たちを没頭させて想像力を刺激させる」
という考えと意思を受け継いだ息子たち。
その後、LEGOを世界で4本の指に入るおもちゃ会社にまで成長させた。
その売り上げは、年間50億ドルにも及び世界中の子供達の想像力を刺激し続けている。



倒産寸前も「遊びのシステム」に回帰し回避
初期の成功は、3つの製品シリーズ。
「レゴ スター・ウォーズ」
「レゴ ハリー・ポッター」
「レゴ バイオニクル」
しかし前者2つの売り上げは、映画公開中は好調だったが翌年には大幅に下落。
継続的なヒット商品を生み出せないレゴ社は、こうした単発商品以外のシリーズがいかに魅力に欠けているかを思い知ることになる。
事態はどんどん悪い方へ転がり、なんと03年末には倒産寸前にまで追い込まれてしまう。
そんな危機的状況の中で、クリスチャンセンの提唱した「遊びのシステム」に回帰する。
レゴ社は、商品を構成する部品の数を半分に減らし、そのほかの多くのシリーズに連結できる「汎用的」なものだけを残したのである。
これによって倒産寸前だった2003年以降、レゴ社は飽くなきイノベーション組織へと変貌を遂げたのである。





かつては島で貧しく育ったクリスチャンセン。
兄から大工を教わったものの、「2度の火災」「妻の死」「大恐慌」に見舞われ絶望的な状態であった。
しかし、彼は諦めなかった。
自らができることを確実に行っていたことで世界有数のおもちゃ会社となり、自らも巨万の富を築き上げていったのである。
自らに降りかかる災難に不満を口にする人は多い。
それらを糧に前に進める人はとても少ないもの。
もし、あなたの前に次々と壁が出来た場合、それはあなたが本気かどうかを試す試練だと考えてみて欲しい。
最高のものこそ価値がある。
子どもたちには最高のものを。by オーレ・キアク・クリスチャンセン